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二条城
2018年12月22日二条城・正式名称では元離宮二条城と言い
江戸時代に造営された平城です。
そもそも「城」と言うモノは、中国で生まれた言葉で、
中国で言う「城」とは、日本の城壁のようなものを指し、
日本で「城」と呼ばれるモノの同義はどちらかと言うと「城市」と呼ばれ、日本で言う「都市」ぐらいの規模のモノで、居住地全周を囲む防御施設を指します。
実際に中国語では都市のことを「城市」とも言い、
中国の「城」と言えば、万里の長城がいい例だと思います。
防御壁として見張りや侵攻を迎撃する為に作られた壁
そして、万里の長城の長さは現存するモノで、6259.6kmもあるそうです
ただ、そのような壁や都市全体を壁で囲うには、
日本では国土の8割が山岳部と言う事もあり、
余り効率的ではありませんでした。
なので、日本の「城」と言うモノはその山岳を利用し、
険阻な山の山上などの高台に城を構え、
高所の利として視界を確保し防御性を高め、
武士が主に駐在し、食糧や武器等を備蓄する防衛施設を指します。
日本の場合、平時では麓で住民と共に住み、敵が来襲すると山上の城に立て籠もると言うような使い方がなされ、山上の城の事を「山城」と言います。
「山城」は、日本がまだ土木技術、特に土地造成技術が未熟な時代に発展したため、
住むには不便で、住む機能を持たず戦時の立て籠もり用の城だったが、
戦国後期になるにつれ、「城」は軍事拠点としての役割に加え、政治・経済の拠点としての役割も重視されるようになり、交通や商業の要衝である平地に城を築くようになった。
この平地に築かれた城の事を「平城」と呼ぶのですが、
「平城」が築かれるようになったのは、上記の政治・経済の拠点としての活用も重視されるようになっただけでは無く、大きなお堀や巨大な城壁、城門、櫓などを造るための建築、土木技術が向上したため、山岳を利用せずとも重要な街道を遮る地点に要塞を建設できるようになり「山城」の役目は終わりました。
そんなその時代の技術が結集されている二条城は、
城内全体が国の史跡に指定されている他、二の丸御殿(6棟)が国宝に、
22棟の建造物と二の丸御殿の障壁画が計1016面が重要文化財に、
二の丸御殿庭園が特別名勝に指定されている。
今年の台風21号で二条城にも多数の被害が発生し、
3ヶ月半経った今でも一部の復旧作業が今なお進められており、
通り掛かった際に東南角櫓の屋根の復旧作業が見えました。
他にも二の丸御殿の瓦や飾り金具、
二の丸御殿庭園の倒木などが作業中と言う事だそうです。
元の姿を取り戻せるように・・・